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福島区玉川の新なにわ筋沿いに甍(いらか)のそびえる圓満寺。この圓満寺の由来についてお話いたしましょう。時は今を去る約490年前の戦国時代。このあたりは野田村と称し、村人は半農半漁の生活を送っていたようです。当時は、本願寺第8世・蓮如上人(しょうにん)の登場により本願寺教団は急速に拡大し、野田村の人々もすべて本願寺の勢力下にあったと思われます。1533(天文2)年8月9日、本願寺第10世・證如上人(しょうにん)が野田村を訪れた時不意に敵勢に襲われ戦闘となりました。野田村の人々は證如上人を守るため一丸となって戦い二十一人が生涯橋(下福島中学校裏)あたりで殺害されたのです。證如上人は泉州方面に逃げられたが、この悲報を聞き野田村の村人たちに一命をとりとめた感謝の気持ちを記した一通の書状をしたためられました。この書状は現在圓満寺に所蔵しており、2003(平成15)年に大阪市有形文化財となりました。そして、翌1534(天文3)年12月、殺害された二十一人衆の末代までの供養とこの事蹟を末代まで伝持するために野田村の地に一宇の坊舎が建立されました。これが圓満寺のはじまりであり、その時御本尊として證如上人より拝受した阿弥陀仏画像も圓満寺に所蔵しており、これも大阪市有形文化財に指定されました。
戦国の世に、信仰のために命までも投げ出した野田村の人々。このような人々の気持ちを私たちは継承しているでしょうか。命を投げ出してまでも大切にしたいものを私たちは本当に持っているでしょうか。圓満寺の成り立ちを記しながら改めて深く考えさせられました。毎年5月8日には、『野田村二十一人討死證如上人(しょうにん)御消息披露法要』を催し、野田村の歴史の一こまを現在まで語り継いでいます。機会があれば是非一度お参り下さい。
1754(宝暦4)年正月晦日に西本願寺より「圓満寺」の寺号と阿弥陀仏木像を拝受しています。野田村惣道場から「圓満寺」として新たにスタ-トしたわけです。その後1759(宝暦9)年に親鸞聖人御画像・蓮如上人御画像・聖徳太子並びに七高僧御画像を拝受しています。いずれも現在本堂に掲げている御画像です。1794(寛政6)年には梶木町(現在の北浜付近)尊光寺(現在天王寺区茶臼山町)より宗判を返還していただいています。従って当寺には過去帳は宝暦年間以降、宗旨人別帳は寛政年間以降が現存しています。
山門は1795(寛政7)年に上棟され当寺では最古の建造物です。本堂は約160年前の1860(万延元)年に再建され、市内で戦災を免れた貴重な木造建築物の一つです。2010(平成22)年に大がかりな修復を実施しました。鐘楼は1893(明治26)年の上棟で梵鐘も同時に鋳造されましたが、太平洋戦争中の1942(昭和17)年に供出し1987(昭和62)年に再鋳されました。いずれも圓満寺御門徒方の尊い御懇念により修復され現在に至っております。お念仏の下に一丸となって御法義を支える野田村門徒の熱く尊い一念が具現されているように思います。
圓満寺ホ-ムペ-ジへようこそ。
この度圓満寺ホ-ムペ-ジを開設いたしました。
圓満寺の寺院活動、沿革等を御門徒(御檀家)の皆様方に知っていただきたい。出来れば、次世代の皆様方、若年層の皆様方に知っていただき、圓満寺をより身近に感じていただきたい、このような目的で開設しました。
寺院は本堂をはじめ大きな建造物で非常に目立っております。しかし、何をしているのか、どのような活動を行っているのか、御門徒の皆様方にも一般の皆様方にもあまりよく知られていません。
圓満寺の法座等に足を運んでくださる御門徒方には理解できても、なかなか足を運んでくださらない御門徒方、仕事や子育てに忙しい方々にはどのような活動をしているのか全くわからないのではないでしょうか。
このホ-ムペ-ジを通して、どうか圓満寺を身近に感じていただき、法座等にも参詣いただき圓満寺の様々な活動に参画していただきたいと存じます。
また、圓満寺の様々な活動をご理解いただき、ご協力いただければと存じます。
スマ-トフォン等にもアクセス可能となっております。
また、御門徒と圓満寺との情報発信のツ-ルとしても活用いただければと存じます。
パソコンやスマ-トフォンで気軽にアクセスしていただき御覧ください。