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法話
2021/04/01
4月の法話

聞こうという

心がなかったなら

聞いていても

聞こえない

(東井義雄『ほのぼのカレンダー』)
 古代ギリシアの哲学者ゼノンはこんな言葉を残しています。
「我々は耳は二つ持っているのに、口は一つしか持たないのは、より多くのことを聞いて、話す方はより少なくするためなのだ。」
 この言葉は私たちにとって話すよりも「聞く」ことが如何に重要であるかを表しています。ところが、私たちは聞こうとするよりも、話したいと思う時があります。例えば、ケンカしている時、相手の言っていることを聞こうとはしません。自慢している時や、噓をついている時もそうです。私たちの日常を振り返ると聞くことよりも、話すことに意識が向いていることが多いようであります。
 浄土真宗では、ご法話を聞くことを「お聴聞する」と申します。「聴聞」には、「聴」と「聞」の二つの漢字が使われています。漢和辞典によると、「聴」は、「よく聞く。詳しく聞く。」一方「聞」は、「ききとる。耳に入れる。」また、「うけたまわる。教えを受ける。」という意味があるそうです。あるご法話でこんなお話を聞かせて頂いたことがあります。

「聴聞」は建物に喩えることが出来ます。「聴」は建物を建てる時の足場であり、「聞」は建物そのものです。建物が完成すると、足場は要らなくなります。「聴聞」もそれと同じで、やがて「聴」は必要無くなり、「聞」、つまりお念仏のお喚び声が聞こえてくるのですよ。

これは最初は聞こうとする心が無ければ、聞こえないけれども、聴聞を重ねることで、生活の中にお念仏が聞こえる身にお育て頂くことであると私は受け止めております。普段は、言葉を聞こうともせずに、言いたいことばかり言ってきたこの口に南無阿弥陀仏のお喚び声が聞こえたままに出て下さることが誠に不思議で、尊いことであります。称名。【副住職】