私たちは常に「出会い」と「別れ」を繰り返しています。ところで、「出会い」も「別れ」も複数の漢字で表わすことができます。「出会い」は「出遭い」、「出逢い」、「出遇い」、「出合い」があり、「別れ」は「分かれ」もありえます。意味もそれぞれ異なりますが、ここでの「出会い」は「出遇い」と言い換えることができるでしょう。「出遇い」の意味は「たまたま、偶然に出遇う」ということです。どんな「出会い」も本当は「偶然の出会い」と頂かねばなりません。それはどんな時も必ず「別れ」が来るからです。それでは、「出会いにより育てられ、別れにより深められる」とはどういうことでしょうか。私は『歎異抄』の内容からそのことを伺うことができるように思います。
『歎異抄』の著者は唯円房とされています。『歎異抄』の前半は唯円房が親鸞聖人(以下聖人)から直接聞かれたお言葉をまとめられ、後半では聖人とは異なったお念仏の受け止め方に対して嘆いておられ、最後に、今は亡き聖人のお言葉を改めて回顧され、悲嘆の思いを述べておられます。そして最後の唯円房のお言葉に、その心情がよく表されています。
「今は亡き親鸞聖人が仰せになっておられたことの百分の一ほど、ほんのわずかばかりを思い出して、ここに書き記したものです。幸いにも念仏する身になりながら、ただちに真実の浄土に往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、何と悲しいことでしょう。同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、涙にくれながら筆をとり、これを書いたのです。」(『歎異抄(現代語版)』、本願寺出版、51頁~52頁)
『歎異抄』という書物は、正に「親鸞聖人との出遇いにより育てられ、別れにより深められた」唯円房のお言葉ではなかったかと頂くことであります。称名。【副住職】