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法話
2021/12/20
12月の法話(最近気付いたこと)

 先日、テレビのニュースで「広島県の養鶏場で、鳥インフルエンザが検出され、ニワトリ約3万羽あまりが殺処分されました。」と報道されていました。私は「殺処分」という言葉が嫌いです。何故他の言葉、例えば、「犠牲になりました。」と言い換えることができないのか、このニュースが流れる度に疑問に感じます。鶏は家畜だから、人間のためなら殺処分されてもよい命なのでしょうか。少なくとも仏教ではそうではありません。生きとし生けるものは全て等しい命を頂いていると考えます。親鸞聖人が『歎異抄』の中で「命あるものは全てみな、これまで何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、父母であり兄弟姉妹であったのです。」と仰っている通りです。大量生産に大量消費。そんな中で多くの命が人間のために犠牲になっています。
 しかしながら、こうした社会を受け入れてきたのは、私たち一人一人なのです。私たちは、それぞれに命あるものを家畜として管理し、お金さえ払えば当たり前のように頂いています。この「当たり前のように」なってしまったことは大きな問題だと思います。今、私たちの生きている社会は、多くの「当たり前」を生み出しています。例えば、学校に行くこと、会社に勤めること、お金さえあれば何でも欲しいものが手に入ると思っていることなど切りがありません。これらは、全て常識ではないかと思うかもしれませんが、誰かがそうした仕組みを作ったから、私たちはその仕組みに従っているに過ぎないのです。見方によってはそうした仕組みに縛られて管理され続けていると考えられます。家畜を管理していると思っている私たちが実は無意識のうちに管理されていたという現実に私は最近気づくことが出来ました。宮沢賢治の書かれた『注文の多い料理店』*の客として店に入った狩人をイメージして頂ければと思います。私たちは生まれた時から、幼稚園、学校、就職という人生が当たり前になっています。生活するためにはお金が必要だからです。そしてお金さえ持っていれば幸せになれると洗脳されていると言っても過言ではありません。今はこうした管理社会が更に加速しています。毎日流れているニュースを注意深くご覧ください。すると、何となく閉塞感を感じることだと思います。
 それでは私たちはどうすれば良いのでしょうか。それは考え方を変えてみるということです。お釈迦様が「全てのとらわれを離れよ」と言われているその原点に返るということです。私たちお互いに今まで、常識と思っていたことに疑問を持ち、それらに縛られずに、「自分が本当にしてみたいことは何なのか」と問うてみて、それを楽しんでやってみましょう。そして「今ここにあるありのままの命に南無阿弥陀仏が入り満ちて下さっている。だから今を喜んで生きよう。そして生きとし生けるものすべては等しい命を生きているのだから、全てが尊い。」と感謝の心を大切にしていきましょう。称名。【副住職】

*『注文の多い料理店』:短編集としての『注文の多い料理店』は、1924年(大正13年)12月1日、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元として1000部が自費出版同然に出版された。発行人は、盛岡高等農林学校の一年後輩にあたる近森善一となっている。書名には「イーハトヴ童話」という副題がついている。(wikipediaより)