法話
2022/01/20
1月の法話(受験シーズンに因んで)
先日、ある門信徒のお宅にお参りに伺いましたら、お仏壇の中にお守りが置かれていました。よく見るとそのお守りの下に、大学名と受験日、合格発表の日が書かれた紙がありました。きっとお孫さんの合格を願われていたのでしょう。お孫さんへの愛情を感じ、お気持ちはよく理解できます。しかしながら、少し厳しい見方をすると、それは他の誰かが入試に落ちることを期待することになってしまいます。全員合格の入試であれば、そもそも願う必要はないわけです。かく言う私も、中学入試の時に家庭教師の先生に買って頂いたお守りを携えて入試を受けたのですが…(笑)
人間とは、最終的には何かに願うことで、夢や希望を叶えて欲しいと思うものなのかもしれません。ところが私たちはもう既に南無阿弥陀仏に出遇っています。そのことはつまり、こちらが願わなくても、諸神、諸仏、阿弥陀様が念仏者を護って下さっているということです。(冥衆護持の益)阿弥陀様は私たちが何かに依存ぜずにはいられない弱い存在であることを見抜かれた上で、南無阿弥陀仏と仕上がって下さいました。私たちが願う前から、阿弥陀様は兆載永劫*のご修行の末に完成された願いが本願力となってこの身に届いて下さっているのです。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
親鸞聖人『高僧和讃』より。称名。【副住職】
*兆載永劫(ちょうさいようごう):兆・載は非常に大きな数のこと。法蔵菩薩(阿弥陀様の因位のお姿)が本願を成就するために修行された、非常に長い時間のこと。(WikiArcより)