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法話
2022/02/20
2月の法話(ある新聞記事に因んで)

 先日の新聞の人生相談で、ある40代の女性が「価値観が違う夫の親戚たち」という悩みを相談されていました。

 数年前、夫のおいの結婚式に招かれたにも拘わらず、人数の関係で呼べなくなったと断られ、その後結婚祝いや出産祝いをしても、内祝いはありませんでした。また、義父母は自分の父が亡くなった翌年に年賀状を送ってきました。喪中と分かっていながら、非常識だと腹が立ったが、我慢しました。こんな夫の親戚とどう付き合うべきかとの内容でした。
 母は記事の相談者が広島県の方だったので、「喪中にも拘わらず、年賀状を送ったということは、浄土真宗の門信徒ではないか。」と申しておりました。
 浄土真宗では喪中という習慣はありません。亡くなった方は南無阿弥陀仏によって、速やかにお浄土に参らせて頂くわけですから、喪中とは言わずに、「還浄」と言います。そのため、家族に亡くなった方があっても、例年通り年賀状を出す方もおられます。
 私たちはお念仏の中で生活しておりますので、喪中という言葉の方が違和感があるのです。これは「価値観が違う」ということなのかもしれません。しかしながら、私たちは如何に「常識」という観念に縛られて生きているのかとも感じます。
 以前、ある布教使の先生がこんなお話をされていました。

「三重県のある地域では、お葬式の時にお赤飯を焚いてお供えし、また一方で、唐辛子をたっぷり入れた辛し汁というものを作ります。これを飲むと辛さのあまり、涙が止まらなくなります。これは亡き方が往生されて、おめでたいけれども、亡き方との別れが辛く、皆で泣きながら、亡き方を偲ぶ習慣なのです。」

 正に所変われば、価値観、常識は変わるものだと聞かせて頂きました。私たちは南無阿弥陀仏の真っ只中を、今、生きております。そして、南無阿弥陀仏によって、お浄土に生まれさせて頂きます。何も喪に服す必要はありません。私たちは、世間の価値観、常識には縛られず、南無阿弥陀仏を究極の拠り所として、自由に生きていきたいものです。称名。【副住職】