法話
2022/03/20
3月の法話(五濁悪世に因んで)
昔、楚という国にに屈原という政治家がいました。楚は現在の長江流域を支配した大国です。彼は、非常に有能で、自分の信念を貫き、王様に仕えたのですが、あることがきっかけで追放されてしまいます。失意のどん底にあった屈原は、江南地方を流浪した末に、やがて川に身を投じて死んでしまいます。
追放された屈原はある時、詩を口ずさみながら、川の沢を歩いていました。すると、ある年老いた漁父が屈原に話しかけます。
漁父:「あなたは、楚の王室に仕えた屈原さんではないですか。何のためにこんな所まで来られたのですか。」
屈原:「世間の人々はみな濁って汚れているのに、私だけが澄んで正しい。人々はみな酔って道理が分からないのに、私だけが醒めて道を守っている。こういうわけで私は追放されたのである。」
漁父:「この上なく聡明で徳の高い聖人は、物事に凝り、こだわることが無くて、世間と共に移ろうことができるでしょう。どうしてあなた様は世間に対して深く憂い、世俗から高く越えて清廉潔白な行いをして、自分で自分を放逐するようなことをなさるのですか。」
屈原:「私はこのように聞いている。髪の毛を洗ったものは、必ず冠に付いた塵を払ってかぶり、体を洗ったものは、必ず衣に付いた塵を払うものであると。これは清廉なものは一層身を汚すまいと思う人情である。どうして潔白な身をもって、汚れたものを受け取ることができよう。いっそ川の流れに身を投じて、川の魚の餌になったとしても、どうして潔白な我が身が世俗の汚れに染まらなければならないのか。」
漁父はこれを聞いてにっこり笑い、舟を漕ぐ櫂の音を高らかに鳴らしながら漕ぎ去り、ある歌を歌います。
「滄浪の水が澄んだならば、それで私の冠の紐を洗うことができよう。
滄浪の水が濁ったならば、それで私の足を洗うことができるだろう。」
漁父はそのまま去って行き、再び共に話すことはありませんでした。
皆様はこのお話を読まれてどう感じられたでしょうか。屈原のように自分の信念を貫き、世の中に染まらず、潔白に生きていきたいと思う方がおられるかもしれません。一方で、漁父の歌にあるように、世の中が濁っているならば、その時代に染まって歩んでいくしかないという考えの方もおられると思います。しかしながら、屈原のように生きていくには相当な覚悟が必要で、しかも自ら正しいと思っているので、苦しみ悩むことが多くなってしまうのでしょう。
御釈迦様はこの世は「五濁悪世」であると言われています。今、世の中に溢れる情報を見ておりましても、心からそう感じています。濁っていることが決して良いわけではないですが、そうした時代に私たちは生きていることを自覚し、それぞれが自分なりの目的をもって生きていくことが、今、正に問われているのではないでしょうか。称名。【副住職】