法話
2022/05/20
5月の法話(築地本願寺の法話)
先日、YouTubeで築地本願寺の常例布教を聴聞させて頂きました。その中で布教使の先生が、蓮如上人の書かれたある御文章を紹介されていました。「疫癘章(えきれいしょう)」と呼ばれるものです。
「最近、ことのほか伝染病が流行り、人々が亡くなります。これは、決して伝染病によって死んでいくのではありません。(死は)生まれたことによってすでに定まっていることなのです。したがって、それほど甚だしく驚くようなことではありません。しかしながら、丁度今の時期に亡くなると、(伝染病で死ぬ)かのように人々はみな思うものである。これは本当にもっともなことなのです。」(蓮如上人『御文章』四帖(九))
コロナウイルスというものが流行って、2年以上になりますが、伝染病は今に始まったことでは無く、500年以上前も同じ状況であったことがこの御文章によって分かります。蓮如上人は、伝染病で死ぬのでは無いのですよ。死は生まれたことによって定まっているのですと改めてお示し下さっています。そのうえで、多くの方が亡くなっていく様子をご覧になって、本当にもっともなことであると共感されているところは、蓮如上人の優しさでは無いかと感じています。
蓮如上人の時代は実際に伝染病によって亡くなっていった方が多くおられ、実感があったのでしょう。しかし現代において、そうした感覚をあまり感じることはありません。それは「死」が切り離されてしまっているからです。「死」は「生」と一つであると仏教では考えます。今日の一日は、もう戻ってきません。そして、この「今」、「一瞬」私たちは死にそして生まれているのです。今生での命を終える時はいつなのかは誰にも分かりません。そして何よって、命を終えるかも分かりません。事故なのか、災害なのか、病気なのか。しかし、それもまた縁である。これが不変の事実です。重要なことは、因と縁を混同しないことです。「生まれたから死ぬのであって、ウイルスで死ぬのではない。ウイルスは飽くまでも縁である。」このことが分かれば、今をこの一瞬を大事に、後悔なく、生きようと思えるのではないでしょうか。最後に仏教讃歌にもなったある詩を紹介したいと思います。喜多内十三造さんの「いのちまいにちあたらしい」という詩です。
朝な朝なに 日が昇るように
いのちの山にも 日が昇る
みほとけの
光あふれて 力みなぎり
今日のつとめを はたす喜び
ああ いのち ああ いのち
いのち まいにち あたらしい
いのち まいにち あたらしい
築地本願寺では、木曜日の午前から日曜日の午後にかけて、「仏さまの教え」をYouTubeで聞くことができます。築地本願寺、YouTubeで検索してみて下さい。称名。【副住職】