法話
2020/08/31
9月の法話
恩を知るとは
わたしを
支えてくれる
無数のいのちに
であうこと
9月の言葉は真宗仏光寺派御本山の伝道掲示板より頂きました。
「恩」から皆様は何を思い浮かべるでしょうか?例えば『鶴の恩返し』や、卒業式などで歌う『仰げば尊し』の最初の歌詞「仰げば尊しわが師の恩」などを連想されるのではないでしょうか。この場合、「恩」とは誰かから受けたり、誰かに返したりするもののように思えます。
ところで「恩」という漢字を漢和辞典で調べてみると、「心+因で「因」は音符を表す。音符の因は、愛に通じ、いつくしむの意味。心を付し、いつくしむの意味を表す。」と載っています。つまり「恩」とは受けたり返したりするものと言うよりは、「私をいつくしみ、めぐみ、育ててくださる全てのもの」と解釈できます。
それでは、「恩を知るとはわたしを支えてくれる無数のいのちにであうこと」とは一体どういうことでしょうか?私たちは日々、数限りないいのちを頂いています。そして、多くの方々に支えられています。こうしたことを仏教では、「縁起」と言います。「私たちは縁起によって生かされている」ということですね。このことについて大谷大学教授の小川一乗先生は次のように言われています。
「私がご縁を頂くのではなく、ご縁の寄せ集めが今の私なのです。これが仏教でいう「生かされている」ということなのです。ご縁が今一瞬の私となって下さっているのです。そのことへの目覚めが仏教なのです。それが縁起です。無量無数といってよいほどのご縁によって、この瞬間の私が成り立っている。それが生かされているということなのです。」(小川一乗著『平等のいのちを生きる』法藏館136頁)
そしてこの文中の「ご縁」という言葉は「いのち」に言い換えることが出来ます。すなわち最後の二文は、「無量無数といってよいほどのいのちによって、この瞬間の私が成り立っている。それが生かされているということなのです。」となります。私たちは食事の最初と最後に「いただきます」「ごちそうさまでした」と言います。申すまでもないことですが、これは単なる合図ではありません。「無数のいのちを頂きます。」「皆様のおかげでごちそうさまでした。」このように毎日の食事を頂くことができれば、その背景にある「無数のいのちにであう」ことができるはずです。【副住職】