法話
2024/10/01
10月の掲示板
信じるとは
そのままを 受け止められる
自分がいること
今月の言葉は、ある映画で主演された芦田愛菜さんが、その完成報告イベントで、「信じる」ということについて質問された時に語られたコメントがベースにあるそうです。以下は芦田愛菜さんのコメントの一部とのことです。
「「その人のことを信じようと思います」って言葉って結構使うと思うんですけど、「それがどういう意味なんだろう」って考えた時に、その人自身を信じているのではなくて、「自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな」と感じて、だからこそ人は「裏切られた」とか、「期待してたのに」とか言うけれど、別にそれは「その人が裏切った」とかいうわけではなくて、「その人が見えなかった部分が見えただけ」であって、その見えなかった部分が見えたときに「それもその人なんだ」と受け止められる、「揺るがない自分がいる」というのが「信じられることなのかな」って思ったんです。」
当時、芦田愛菜さんは16歳だったそうですが、そうとは思えない深い内容に感じました。私たちはつい、相手に対してこういう人であるはずだと決めつけ、期待を押し付けてしまうことがあります。しかしながら、全ての人、(人以外の存在でもそうですが)各々に個性があり、心もまるでミラーボールのように、様々な一面があるのです。それは、時間と共に変化するものでもあります。人には様々な一面があり、変化するものだと知り、そのままを受け止めることができる、揺るがない自分がいることが「信じられること」と愛菜さんは語っておられます。
確かに、その通りだと思います。しかし、「そのままを受け止められない」私がいることも事実です。これは、身近で大切な存在であるほど、そう思ってしまうことがあります。例えば、家族の誰かが病気などになれば、少しでも早く良くなって欲しいと思うことでしょう。そのままでいいとは思えないものです。そのままでいいとは思えない私をありのまま受け止めようと阿弥陀様は今、ここにはたらいて下さっているのです。ですから、今月の言葉を私はこのように頂きたいと思います。
「(阿弥陀様の)信心とは、そのままを受け止められない自分をありのまま受け止めてくださるはたらきに出遇うこと」
称名。【副住職】