掲示板記事詳細

法話
2025/06/01
6月の掲示板

他人を思い通りにはしたいが

自分を思い通りにはさせない私
 今月は、京都佛光寺の掲示板の言葉です。私たちはどういう時に、他人を思い通りにしたいと思うでしょうか。私の場合、自分に都合が悪くなった時、他人を思い通りにしたいと思う事があります。物事が順調に進んでいる時は、他人のことにも良い意味で、関心が無くなるので、他人を思い通りにしようとは思いません。ところで、御釈迦様は、人が高慢になった時に、「他人を思い通りにしようとする」と戒めておられます。

「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることについては、わたしの意に従え」—愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。(『ブッダの真理のことば感興のことば』岩波文庫20頁)

 一方で、自分を思い通りにさせない私も確かに存在しています。それは、言い換えると、「我慢している私」です。
 今月の言葉を私は、「自分自身を自覚する言葉」と受け止めています。高慢も我慢も共に「慢心」です。高慢が慢心であることは、分かり易いと思いますが、我慢が慢心とはどういうことでしょうか。私たちはよく「我慢しなさい」と小さい時から教えられてきました。しかし我慢は自分に噓をついているということです。身体の上で我慢すると耐えられないことがあります。そのような場合、医院に行く人もいるでしょう。ところが、心の我慢は気付かぬうちにしていることが殆どです。私の周りの方々に、高慢な人はそれほど多くないですが、我慢しているであろう人は大勢おられます。私たちは、自分に素直に生きて良いのです。今月の言葉を気付きの第一歩と受け止めて、お互いを尊重し、素直なありのままの私でありたいものですね。称名。【副住職】