法話
2020/11/20
11月の法話(御正忌報恩講に因んで)
親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、「阿弥陀仏が五劫もの間思いめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、それほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話になっておられました。 『歎異抄』後序(『歎異抄現代語版』48頁~49頁、本願寺出版)
旧暦11月28日は親鸞聖人の御祥月命日にあたります。毎年、真宗教団連合のうち浄土真宗本願寺派と真宗高田派以外の宗派では、11月21日から28日までの一週間、御正忌報恩講をお勤めされます。その時に、親鸞聖人の御生涯が綴られた『御伝鈔』が拝読されます。
親鸞聖人は御生涯を通して、人々にどのような言葉を残されたのでしょうか?そのことが明確に書かれているのが『歎異抄』です。『歎異抄』の作者については、はっきり分かっていませんが、その内容から親鸞聖人のお側で常につかえておられた方(おそらく唯円房)によって書かれたと考えられます。それ故に親鸞聖人の生前のお姿がありありと伝わってまいります。
冒頭の言葉は親鸞聖人がつねづね仰せであったようです。「五劫」というのは、私たちの想像をはるかに超えた測り知れない長い時間を表します。「阿弥陀様が測り知れない時間深く思いをめぐらされた末に起こされたご本願はそれはただこの親鸞一人をお救いくださるためであった。」これは一体どういうことでしょうか?それはひとえに親鸞聖人(以下聖人)が阿弥陀様のご苦労を私事(わたくしごと)として受け止めていかれたお姿であります。
聖人は9歳の頃、比叡山に入られ、20年もの間、仏道修行を積まれ、「生死いづべき道」を求めていかれました。しかしながら、どれほど修行を積んでも煩悩は尽きないことを身をもって感じられた聖人は、29歳の時、比叡山から京都の六角堂まで100日間、毎日通い続けられました。そして聖徳太子の夢に導かれてついに比叡山を離れ、京都吉水におられる法然聖人のもとへ行く決意をなさいます。そこで法然聖人は、「ただ念仏して阿弥陀様にたすけられなさい」と説かれます。この法然聖人のお言葉こそが聖人にとって人生最大の出遇いでありました。このことは、聖人ご自身が『教行信証』の中で「建仁元年(西暦1201年、親鸞聖人29歳)に自力の修行を捨てて、阿弥陀様の本願に帰依します。」と宣言されていることから明らかです。
聖人はどれほど懸命に自力の修行に励んでも、なかなか覚ることができず、逆に仏の覚りからはほど遠い自らの愚かさを身にしみてお知りになったことでしょう。その絶望の中、究極の阿弥陀様のお救いに出遇われたのです。そして五劫という時間は、単に果てしない時間の長さを表すのではなく、この罪深い私一人をお救い下さるための阿弥陀様のご苦労であったと聖人は頂いていかれたのです。称名。【副住職】