法話
2020/12/01
12月の法話
キレてしまったあの一言
言って後悔、言わねば不愉快、
煩悩尽きず
(真宗佛光寺派掲示伝道より)
誰しも「キレてしまう」経験はあると思います。「キレてしまう」原因は一体何でしょうか。それは「自分こそが正しい」と思っている、もしくは「自分の思い通りにならない」からであります。前者の場合、本当に正しければ、「キレること」が良いこともあるかもしれません。しかしながら、善いことと悪いことの判断基準は人によって様々です。また、たとえ法律や倫理観に基づいていたとしても、国や時代によって、善悪は変わってしまいます。
『歎異抄』の後序に、親鸞聖人は次のように仰せです。
「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽くしたのであれば、悪を知ったと言えるからである。」(『歎異抄(現代語版)』50頁、本願寺出版)
誤解の無いように申しますと、聖人は善悪が無いと仰せであるわけではありません。例えば仏教には十悪があります。私たちはこれらを悪であると分かっていても、末通って慎むことができないこともまた事実です。ですから実際は何が善で何が悪かを知ることはできません。にも拘わらず私たちは自分の価値基準にこだわり、時に「キレてしまう」ことがあるのです。そしてその感情が言葉になると、十悪の一つ「悪口(あっく)」になります。「悪口」とは口業の一つで、相手をののしるような言葉です。「悪口」を言って後悔、言わねば不愉快、煩悩尽きず。これは『一念多念証文』で親鸞聖人が仰せの内容に通じるように思います。
「怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起こり、まさに命が終わろうとするその時まで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない」(『一念多念証文(現代語版)』37頁、本願寺出版)
大晦日の除夜の鐘。私たちの煩悩はとても百八つで尽きるものではございません。【副住職】