法話
2021/01/20
1月の法話(法然上人御正忌に因んで)
ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、
疑いなく往生するぞと思ひとりて申すほかには
別の子細候はず。(法然上人『一枚起請文』)
旧暦1月25日は法然上人の御祥月命日に当たります。上の御文は、法然上人が御往生される2日前の1月23日に法然上人自ら、両手の印を押され、念をおして残されたお言葉『一枚起請文』の一節です。私が通っていました学校は、浄土宗の宗門校で、宗教の授業の最初に必ずこの『一枚起請文』を唱和していたことを今でも思い出します。皆様は「往生」という言葉を聞かれて、どう感じられますか?例えば、最近の大雪のニュースで、「車が国道で立ち往生しています」という報道をよく耳にしました。また、大阪弁で、「往生しまっせ」と言うこともあります。「往生」という言葉の使い方として、何か困ったことが起きた時や諦める時に使われることが殆どのように感じます。おそらく「往生」=「死」というイメージからそう使われるようになったのでしょう。しかしながら、「往生」とは、「往き生まれる」と書きます。極楽という仏様のお覚りの世界に往き生まれさせて頂くということです。誰もが南無阿弥陀仏によって「往生」させて頂く。このことは南無阿弥陀仏の上にすでに完成されていることであって、私たちがはからうことではありません。
「義のないことを根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。(『親鸞聖人御消息(現代語版)』69頁、本願寺出版)
このお言葉を、親鸞聖人はいくつもの御消息で書いておられます。「義のない」とは、自力のはからいが無いという意味です。ですから「往生」も私たちのはからいがあってはならないのです。ただ往生させて頂くことを慶んで南無阿弥陀仏と申して、今日も精一杯生きていきます。その他に別の子細はございません。称名。【副住職】