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法話
2021/02/20
2月の法話(最近思うこと)

 先日、初めてリモートでの御法事をお勤めさせて頂きました。皆様、それぞれオンラインで繋がり、ご法縁を頂かれたことは誠に尊いことでありました。今後はオンラインでの御法事も増えてくるかもしれません。思えば昨年から、コロナ渦でのテレワークが主流になってきています。何事も便利になったことは確かに有難いことですが、同時に感覚的な距離感が無くなりつつあることを感じております。ここ10年でビデオ通話は当たり前になっていますが、20世紀には考えられなかったことです。さらに遡れば、電話も20世紀では当たり前になりましたが、19世紀には考えられなかったことでしょう。何が言いたいかと申しますと、聴覚的にも、視覚的にも距離感が無くなっているということです。今では更にAIが発達して言語的にも距離感が無くなりつつあります。そのうち言葉の壁を越えて世界中の人と話すことが当たり前になるのかもしれません。改めてそのことを考えてみますと、「当たり前」の怖さを感じております。
 何事も「当たり前」になると、感動や驚きが無くなってしまいます。私自身、一日を振り返って「今日は何かに感動したか」と問うてみても、答えが出ないことが多いのです。誠に悲しいことです。ところがよく周りを観察してみると、身近なことでも感動することがあります。例えば、寺の境内には多くの植物があり、季節毎に色とりどりの花が咲きます。真冬の厳しい寒さの中でも、咲く花があります。そんな花を愛でることも私にとっては一つの感動であります。
 作家の五木寛之さんが複数の本で次のように書いておられます。

「アイオワ大学の教授がこんな実験をしました。三十センチ四方、深さ五十六センチの木箱を作り、そこに砂だけを入れて一本のライ麦の苗を植える。水だけで育てて三ヶ月後に箱から取り出して砂をすべてふるい落とし、広がっている根の長さ(顕微鏡でしか見えない根毛も含めて)を計測してみたところ、全部で何と一万一二〇〇キロメートルもあったという。一本のライ麦が砂の中から水だけを吸い上げ、六十日間を生き続けるために、シベリア鉄道をはるかにこえるくらいの長さの根を張りめぐらせ、その命を支えていた。」

そう考えますと、今咲いてる花の命も目には見えないけれども、さらに大きな根を地中に張り巡らせて、生きている。誠に不思議なことだなと思えるようになったのです。何事も「当たり前」に思ってしまう今だからこそ、命の不思議を見つめていかなければならない。そう思っています。【副住職】