原文
宗旨送り手形之事
一上福嶋村和泉屋五兵衛孫市松与申當二歳之
男子壱人法花宗拙寺旦那ニ紛無御座候今般藤
野田村百姓藤七方江養子ニ差遣し可申()願出候ニ付
任其意拙寺宗帳相除キ送り遣し候間 向後貴寺
宗帳江御加へ可被成候 宗旨之儀ニ付聊申分無御座候
為後日之宗旨手形如件
文政十二年
丑八月 大坂天満西寺町
本傳寺
野田村
圓満寺
書き下し文
宗旨送り手形の事
一上福嶋村和泉屋五兵衛孫市松と申す当二歳の
男子壱人、法花宗拙寺旦那に紛れ無く御座候 今般藤
野田村百姓藤七方へ養子に差し遣し申すべく()願い出候に付
其意にまかせ拙寺宗帳相除き送り遣し候間 向後貴寺
宗帳へ御加へ成さるべく候 宗旨の儀に付いささか申し分無く御座候
後日の為に宗旨手形よって件のごとし
文政十二年
丑八月 大坂天満西寺町
本傳寺
野田村
圓満寺
解説
法花宗(日蓮宗)本傳寺の檀家・上福嶋村和泉屋五兵衛の孫市松(二歳)が
拙寺檀家の藤野田村百姓藤七方へ養子に入る際送られた書状です。
文中に藤野田村と記載され、野田藤で有名な村であったことがわかります。
古くは「蘆分船」(あしわけふね)(延宝三(1675)年)や「摂陽群談」(元禄十四(1702)年)に記載され、江戸末期暁鐘成著「浪華の賑ひ」(文久三(1863)年)にも絵図が記された野田藤。
江戸時代の地図にも「藤名所」「野田ノ藤」と記されています。
全国的に有名であったことがわかります。