原文
宗旨送り一札之事
一當村廣島屋亀吉忰石松拾九才
同次郎吉拾三才娘里登三拾才〆三人
右之者共代々浄土真宗ニ而 則拙寺
檀那ニ紛無御座候 然ル處此度勝手ニ付
其表廣島屋亀吉方ヘ同家ニ引越度
段申出候ニ付 任其意人別差送り申候
以来貴寺御宗帳へ御加入御支配
可被成候 然ル上者拙寺宗帳相除可申候
為後日宗旨送り手形仍而如件
藝州安藝郡倉橋島
弘化四未年 室尾浦
二月 東本願寺支配
妙行寺
摂州西成郡藤野田村
圓満寺御房
書き下し文
宗旨送り一札の事
一当村廣島屋亀吉忰石松十九才
同次郎吉十三才娘りと三十才しめて三人
右の者共代々浄土真宗にて、すなわち拙寺
檀那に紛れ無く御座候、然る処此度勝手に付
その表廣島屋亀吉方ヘ同家に引越度
段申し出候に付、其意にまかせ人別差送り申候
以来貴寺御宗帳へ御加入御支配
成さるべく候、然る上は拙寺宗帳相除き申すべく候
後日の為宗旨送り手形よってくだんの如し
芸州安芸郡倉橋島
弘化四未年 室尾浦
二月 東本願寺支配
妙行寺
摂州西成郡藤野田村
圓満寺御房
解説
1847(弘化4)年2月に芸州(広島県)の倉橋島室尾浦の妙行寺から拙寺に送付された人別送り状
です。文面からは、廣島屋亀吉の息子(石松19才・次郎吉13才)と娘(りと30才)が父親である亀吉のもとへ引っ越すことになり送り状が送付されたことがわかります。
先に当地へ引っ越していた父親のもとへ三人の子供達を引き取ったということです。
倉橋島妙行寺からの送り状は十数通確認できます。当時仕事を求めてこの地に出てきたか、あるいは先に出てきた者が仕事に成功して同郷の者を呼び寄せたかもしれません。
瀬戸内海を船で行き来していた時代です。当時の人々や物資の流れを象徴するような文書が多数拙寺に埋蔵されているのです。