原文
宗旨手形之事
芸刕廣嶋西地方町
柳川文杏
忰 尚白
右者代々浄土宗拙寺旦那ニ紛無御座候
御公儀御法度筋之儀ハ不及申 宗旨之儀ニ付
脇ゟ訴人之者一切無之候 此度其御旦家
西村周益江致入家候間 向後宗旨人別ニ
御加可被下候 為後日寺請依而如件
文久三亥年六月 同所
浄國寺
摂州西成郡藤野田村
圓萬寺様
書き下し文
宗旨手形の事
芸州広島西地方町
柳川文杏
忰 尚白
右は代々浄土宗拙寺旦那に紛れなく御座候
御公儀御法度筋の儀は申すに及ばず 宗旨の儀に付
脇より訴人の者一切之なく候 此度其御旦家
西村周益へ入家致し候間 向後宗旨人別に
御加下さるべく候 後日の為寺請依って件のごとし
文久三亥年六月 同所
浄國寺
摂州西成郡藤野田村
圓萬寺様
解説
1863(文久3)年5月に廣嶋西地方町(現在の広島市中区土橋町)の浄國寺檀家柳川文杏の息子尚白が拙寺門徒西村周益に入家するとき拙寺へ持参した送り状です。
幕末に入り攘夷運動がさかんとなり世の中は混乱していました。5月には長州藩による外国船砲撃事件、6月には薩摩藩とイギリスとの薩英戦争が勃発しました。長州藩も薩摩藩も敗戦し、その経験から明治維新へ向けて藩政を立て直してゆくのです。
朝廷側との交渉のため14代将軍家茂が上洛したのもこの頃です。
なお、浄國寺は天正年間(1573~1591)に広島県高田郡吉田町創建の古刹で福島正則のすすめで広島市内へ移転しました。原爆被害を乗り越えて現在も同地に存在しています。