原文
宗旨人別送手形之事
一當寺壇那堂島新地中弐丁目岸屋安兵衛かしやはりまや
弥七母はる同人妹きく〆弐人今度藤野田村百姓藤屋弥八方へ
引取申度旨願出任其意除帳致遣し候 向後貴寺宗帳ニ
御加入可被成下候 是迄宗旨之義者左之通
真言宗當寺壇那ニ紛無御座候切支丹宗門者不申及轉ニ而も無之候
若宗旨之義ニ付脇ゟ訴人有之彼者切支丹宗門相究候ハヽ
御公儀江罷出拙寺ハ勿論組中共越度可相成候為後日依而如件
嘉永五子年十二月 太融寺
自性院
報恩院
円満寺役僧中
書き下し文
宗旨人別送り手形の事
一当寺壇那堂島新地中二丁目岸屋安兵衛かしやはりまや
弥七母はる同人妹きくしめて二人今度藤野田村百姓藤屋弥八方へ
引取申したく旨願い出、其意に任せ除帳致し遣し候 向後貴寺宗帳に
御加入成し下さるべく候 是迄宗旨之義は左之通り
真言棟当寺壇那に紛れ無く御座候 切支丹宗門は申すに及ばず轉にても之無く候
もし宗旨の義に付脇より訴人これ有り彼者切支丹宗門に相究まり候はば
御公儀へ罷り出拙寺は勿論組中共越度相成べく候 後日の為よって件の如し
嘉永五子年十二月 太融寺
自性院
報恩院
円満寺役僧中
解説
1852(嘉永5)年12月に太融寺から圓満寺宛てに出された人別送り状です。11月に大阪市中で大火があり、翌年6月にペリ-が来航し江戸幕府は開国を迫られ情勢は緊迫してゆく状況でした。
太融寺檀家はりまや弥七の母と妹を拙寺檀家藤野田村百姓藤屋弥八が引き取るために出された送り状です。
11月の市中の大火が原因で母と妹を手放さざるを得なくなったのでしょうか。生活困窮のため養子や養女に自分の子供を差し出したり、引き取ってもらうことが度々あったようです。
人別状を調査してみると、江戸時代の庶民の生活状況の一端を垣間見ることができるようです。