原文
宗旨送り一札之事
一 當村百性又兵衛
忰 又助
〆壱人
右之者宗旨者代々浄土真宗ニ而 則拙寺
壇那ニ紛無之候然処此度大坂下福嶋村
虎屋伊三郎貸家廣島屋清吉方江
養子ニ罷越候ニ付送之儀願出任其意宗旨
人別差出申候以来拙寺宗帳相除申候間
貴寺御宗帳へ御加入可被成候為後日之
宗旨人別送り一札依而如件
藝州
倉橋嶋室尾
慶應二寅年 妙行寺
八月
摂州西成郡藤野田村
御坊
圓満寺殿
書き下し文
宗旨送り一札の事
一 当村百性又兵衛
忰 又助
〆一人
右の者宗旨は代々浄土真宗にて すなわち拙寺
壇那に紛れ無くの候 しかる処此度大坂下福嶋村
虎屋伊三郎貸家廣島屋清吉方へ
養子に罷り越し候に付 送りの儀願い出其意に任せ宗旨
人別差出申候 以来拙寺宗帳相除き申候間
貴寺御宗帳へ御加入成さるべく候 後日の為
宗旨人別送り一札依って件の如し
芸州
倉嶋嶋室尾
慶應二寅年 妙行寺
八月
摂州西成郡藤野田村
御坊
圓満寺殿
解説
1866(慶応2)年8月の宗旨送り状です。7月に14代将軍家茂が病没し、幕府による長州征伐の失敗等で世は混沌としていました。全国に百姓一揆や打ち壊しがおこっていた時代です。明治維新前の混乱時代だったのです。
書状は芸州(広島県)倉橋島の百姓又兵衛の忰又助が拙寺檀家の廣嶋屋清吉方へ養子に来たときに持参したものです。拙寺には倉橋島室尾の妙行寺からの送り状が数十通存在しています。おそらく先立ってこの地に居住した室尾出身の方(この場合は廣嶋屋清吉)が自分の親族なり知人やその家族を呼び寄せたのではないでしょうか。商売等で成功し人手が必要となり自身の出身地から養子や養女、使用人としての労働力を必要としたのではないかと思われます。
江戸時代の住民の移動を考える上で送り状は貴重な史料であると思います。