原文
一札
一當寺伯父岱洞儀、先年大坂表江罷登り候巳来、不思議之御因縁ニ而、
貴寺様何角御セ話被成下、御厚情之段一統難有奉謝候、右岱
洞儀遠路故此上共万端宜敷奉願候、若病気相煩候歟、又者萬一病死
等仕候ハ、御寺法之通御取置之儀奉願上候、為後日一札仍而如件
江戸築地
法重寺
天保十四卯年十二月
藤野田
圓満寺様
書き下し文
一札
一、當寺伯父岱洞儀、先年大坂表へ罷り登り候以来、不思議の御因縁にて、
貴寺様何かと御世話成しくだされ、ご厚情の段一統有り難く奉謝候、右岱
洞儀遠路ゆえ此上共万端よろしく奉り願い候、もし病気相煩い候か、又は万一病死
等仕り候ば、御寺法の通り御取り置きの儀奉り願い上げ候、後日の為一札よって件の如し
江戸築地
法重寺
天保十四卯年十二月
藤野田
圓満寺様
解説
江戸時代人の移動する際には、宗門人別送り状が必要であった。寺請制度のもとで、どこかの寺院の檀家であることが必須であり、檀家を移る場合には移動前の寺院から移動後の寺院に送り状が添えられ移動可能となった。
そのため、拙寺には約700通の人別送り状が残されている。その中で、今回取り上げたのは、藤野田(村)記述の送り状である。江戸末期野田村は野田藤で全国的に有名となり、藤野田村とわざわざ記載されるようになっていた。
本文書は、そのことの証明となる貴重な文書である。しかも、江戸築地の寺院にまで藤野田が伝わっていたのである。野田藤は遠く江戸にまで聞こえていたのである。法重寺は現在も存在している(東京都中央区築地)
岱洞公と拙寺の住職が知己であったのかもしれない。大阪に逗留時に面倒をみることになったようである。病気や死去の場合は、拙寺の作法に任せると記されている。旅先や逗留先で死去した場合は、檀那寺への通知なく葬儀を行ってもかまわないということである。江戸時代は情報伝達に時間を要する。死去した場合速やかに葬儀を施行せねばならない。そのような理由で、このような施策が講じられたのであろう。