原文
宗旨送り一札
一摂州西成郡木寺邑喜兵衛忰和助与申者當
廿八才相成候宗旨之儀ハ代々浄土真宗拙寺旦那ニ而御座候 御法度之切支丹轉入ニ而ハ無之候然ル處今般貴寺旦那藤野田邑 福田屋清光貸家かこや吉兵衛方へ養子ニ参依之宗旨送願出任其意送り差出候間自今貴寺ゟ宗印被成候為後日寺送り一札仍而如件
北宮原村
圓光寺
天保弐年
月日
藤野田村
圓満寺
書き下し文
宗旨送り一札
一摂州西成郡木寺村喜兵衛忰和助と申す者当 廿八才相成候 宗旨の儀は代々浄土真宗拙寺旦那にて御座候 御法度の切支丹轉入にては これ無く候 然る処今般貴寺旦那藤野田村 福田屋清光貸家かこや吉兵衛方へ養子ニ参り之に依り宗旨送 願出 其意に任せ送り差出候間 自今貴寺より 宗印成さるべく候 後日の為寺送り一札よって件の如し
北宮原村
圓光寺
天保二年
月日
藤野田村
圓満寺
解説
1831(天保2)年に浄土真宗圓光寺檀家の木寺村喜兵衛の息子和助が藤野田村かこや吉兵衛方へ養子に入るときの送り状です。
この年3月に安治川口を浚渫し天保山が築かれました。安治川の土砂をして作った人工の山?です。
天保の改革が始まり、庶民への厳しい規制は続々と強化されました。
しかし生活は一向に楽にならず、あちこちで打ち壊しや一揆が起こりました。
1837(天保8)年には大塩平八郎の乱が大坂で勃発したのです。
なお、圓光寺は浄土真宗仏光寺派の寺院で淀川区宮原に現存しています。