原文
宗旨手形之事
一 大坂堂嶋新地壱丁目
梅屋栄助娘
むめ
壱人
右之者此度貴寺御旦家藤野田村
百性弥七方へ働き奉公ニ参り度旨願出
任其意人別送り差出 年中貴寺
宗帳江可被成御加入當寺除帳仕候右者宗旨
代々浄土真宗當寺旦那ニ紛無之切支丹之義不及申轉ニ而も無之
若宗旨之義ニ付脇 訴人有之そうおるて彼者邪宗門ニ相究候ヘハ
御公儀江罷出拙僧ハ勿論組中迄可為越度為後日寺請状仍而如件
本願寺下
天満三丁目 西慶寺
文久四子年 本教寺
正月 蓮教寺
藤野田御坊留守居
圓満寺
書き下し文
宗旨手形の事
一 大坂堂嶋新地一丁目
梅屋栄助娘
むめ
一人
右の者此度貴寺御旦家藤野田村
百性弥七方へ働き奉公に参り度旨願出
其意に任せ人別送り差出し 年中貴寺
宗帳へ御加入成さるべく當寺除帳仕り候 右者宗旨
代々浄土真宗当寺旦那に紛れこれ無く 切支丹の義は申すに及ばず轉にても之無く
もし宗旨の義に付 脇より訴人これ有り候て 彼者邪宗門に相究候はば
御公儀へ罷り出 拙僧は勿論組中迄越度なすべく 後日の為寺請状よって件のごとし
本願寺下
天満三丁目 西慶寺 文久四子年 本教寺
正月 蓮澤寺
藤野田御坊留守居
圓満寺
解説
文久4年(1864)1月に天満3丁目の西慶寺・本教寺・蓮澤寺から圓満寺へ送られた人別状です。
三つの寺は組寺といい、梅屋栄助はこのうちのどこかの檀家であったわけです。
栄助の娘むめが藤野田村百姓の弥七方へ奉公にゆくときに出された送り状です。
奉公中は奉公先の旦那寺に所属するわけです。奉公が明けて自宅へもどれば自宅の旦那寺に復帰する
わけです。
江戸時代は下人や下女として他家に奉公することが多く、圓満寺にもこのような送り状が数多く残っています。