掲示板記事詳細

古文書
2024/03/28
往来手形①

原文

     宗門往来手形
一豊前国宇佐郡江嶋村豊助与申者代々
  浄土真宗ニ而拙寺旦那ニ紛無御座候此度
  角力稽古之ため諸国ニ罷出候間所々御
  関所無滞御通し可被下候若宗旨之
  儀ニ付不審成儀茂御座候ハゝ拙僧何方
  迄茂罷出急度申訳可仕候萬一死去仕候ハゝ
  其所ニ而相應ニ御葬可被下候為後日
  往来手形仍而如件
           豊後国宇佐郡守山村
  文政五午年二月   浄土真宗教覺寺

    所々
      御関所
 

書き下し文

     宗門往来手形
一豊前国宇佐郡江嶋村豊助と申す者 代々
  浄土真宗にて拙寺旦那に紛れ無く御座候 此度
  角力稽古のため諸国に罷り出候間 所々御
  関所滞り無く御通し下さるべく候 若し宗旨の
  儀に付不審成儀も御座候はば 拙僧何方
  迄も罷り出急度申し訳仕るべく候 万一死去仕り候はば
  其所にて相応の御葬り下さるべく候 後日の為
  往来手形仍って件のごとし
           
             豊後国宇佐郡守山村
  文政五午年二月       浄土真宗教覺寺

    所々
      御関所
 

解説

相撲稽古で諸国を巡るために出された往来手形です。相撲は江戸時代非常に栄えた庶民の娯楽で、全国各地で興行が行われました。豊助も力士として全国を巡ったのかもしれません。
1822(文政5)年豊前(大分県)宇佐郡守山村教覚寺より発行された往来手形です。豊助はこの手形を持参して全国を巡業してまわったのでしょう。
圓満寺にこの手形が残されている理由は不明です。本来往来手形は往来が終了すると発行された寺院に戻されるものです。圓満寺に現存する30余通の往来手形の内9通は圓満寺門徒へ圓満寺が発行し帰国後圓満寺へ返却されています。
豊助が大阪で死去したのか、あるいは大阪に居住したのか不明です。往来手形が転宅や引越に使用されたかもしれません。