原文
一札
肥前国平戸松浦郡
田助浦
一 北野玄龍
右者代々妙德寺壇那紛無御座候然ル処今般下福嶋村
住宅仕候ニ付貴院様門徒御差加ヘ宗旨人別
御差出之義奉願上候右人躰ニ付故障之筋一切無候若
脇ゟ難題申出候ハヽ本人ハ勿論請人罷出貴院様へ
少も御難義相掛申間敷候依而人躰請合一札如件
下福嶋村江戸屋長右衛門借家
嘉永三庚戌年 北野玄龍
九月 當村奥之町
網屋定七
熊七
御坊
圓満寺殿
御役者中
書き下し文
一札
肥前国平戸松浦郡
田助浦
一 北野玄龍
右は代々妙德寺壇那紛れ無く御座候 然る処今般下福嶋村
住宅仕り候に付 貴院様門徒御差し加え 宗旨人別
御差し出の義奉り願い上げ候 右人躰に付故障の筋一切無く候もし
脇より難題申出候はば 本人は勿論請人罷り出 貴院様へ
少しも御難義相掛け申す間敷候 依而人躰請合一札件のごとし
下福嶋村江戸屋長右衛門借家
嘉永三庚戌年 北野玄龍
九月 當村奥之町
網屋定七
熊七
御坊
圓満寺殿
御役者中
解説
この書状は、北野玄龍の圓満寺への入壇要望書であり、奥之町の網屋定七、熊七が保証人となっています。
前回の平戸の壇那寺妙德寺からの書状は、寺送り状であるが中身は往来手形の文面と同様です。
おそらく、北野玄龍は妙德寺からの書状を所持して平戸を出発し旅先ではその書状を見せながら大阪まで旅を続けたのでしょう。そして大阪到着後、保証人を探し保証人である網屋に今回の書状(人躰請状)を圓満寺へ提出してもらい正式に圓満寺門徒(檀家)となったわけです。提出年月が一ヶ月ずれていますので、そのように推測できるのです。
このようにして、仕事や引っ越しのため大阪へ出てくる事が多々あったようです。拙寺には人躰請状が相当数存在します。書状を詳細に調査すれば、幕末の人口移動を垣間見る事が出来るように思います。