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古文書
2020/07/21
圓満寺の成り立ち

野田村廿一人討死證如上人御消息

原文

野田惣中へ  証如
今日のかツセんに廿一人
うちしにのよし、いた
はしさセひにおよは
す候 しかれとも
しやう人の御かたを申
され候。たのもしくあり
かたく候。うちしにの
かた  は こくらく
のわうしやうをとけられ
候ハんする事 うたかい
なく候。いよ  ちそうた
のミ入候。此よしうちしに
のあとへも つたへられ候へく候。
あなかしこ

八月九日    証如(花押)
野田惣中へ

書き下し文

野田惣中へ  証如
今日の合戦に廿一人
討死のよし、いた
わしさ是非に及ば
ず候。しかれども
上人の味方を申
され候。たのもしくあり
がたく候。討死の
方々は 極楽
の往生をとげられ
候わんずる事、疑い
なく候。いよいよ馳走た
のみ入り候。此の由討死
の後へも 伝えられ候べく候。
あなかしこ

八月九日    証如(花押
野田惣中へ

解説

本願寺第十世証如上人から野田村に下された感状である。文面からあきらかなように
証如上人に加勢した野田村門徒が廿一人殺害された。そのおかげで証如上人は敵勢から逃れることができた。そのことに対する感謝状である。
花押の形から天文元(一五三二)年とする説と二(一五三三)年、三(一五三四)年とする説がある。
この感状は二つの面で非常に貴重である。一つは証如上人の初期書状は非常に稀であるということ。
二つ目はこのような感状はほとんど記されることがないということ。
懇志上納に対する感状は多数存在するが、本願寺や門主の為に命がけで戦ったことに対する感状はほとんど存在していない。そのような点から、この感状が執筆されたのはよほど状況が逼迫していた時に記されたものと考えられるのである。おそらく証如上人は身の危険を感じられたに違いない。
討死した者は極楽往生間違いなしと記し、後代へこの出来事を伝えてくれと記されている。証如上人の命を救った野田村門徒への強い謝念が感じられる書状である。