原文
往来一札之事
一播州揖東郡網干新在家村之住人立野屋
庄三郎家内弐人依心願此度西国三拾三所
巡拝仕度往来送り願出任其意相遣し候道中
国々御関所無滞御通可被下候若シ途中二而
病死等仕候共此方へ御届不及申其御所之御作法
之通り宜御取成可被下候為其往来一札仍而如件
浄土宗 禅林寺
京都両本山 光明寺末
嘉永四年 同州揖西郡網干濱田村
亥八月日 安楽山 西方寺
国々
御関所
御役人中
書き下し文
往来一札の事
一播州揖東郡網干新在家村の住人 立野屋
庄三郎家内二人 心願に依り此度西国三十三所
巡拝仕り度く往来送り願い出 其意に任せ相遣し候 道中
国々御関所滞り無く御通し下さるべく候 もし途中にて
病死等仕り候共此方へ御届け及ばず申し其御所の御作法
の通り宜しく御取り成し下さるべく候 其往来一札の為仍って件の如し
浄土宗 禅林寺
京都両本山 光明寺末
嘉永四年 同州揖西郡網干濱田村
亥八月日 安楽山 西方寺
国々
御関所
御役人中
解説
播州揖東郡網干新在家村(現在は姫路市網干区)の立野屋庄三郎夫婦が西国三十三カ所巡拝をするため旦那寺・西方寺より発行された往来手形である。
これまでの往来手形の文面と同様に道中で死去すればその土地の作法で葬送すること、旦那寺への通知不要、各地関所を滞りなく通過できるよう要請している。
なお、この手形が圓満寺に存在している理由は、拙寺過去帳に「嘉永7年7月晦日・立野屋庄三郎、上福嶋村・播磨屋庄七親類」としるされており圓満寺が葬儀を執り行っている。親族の家に滞在中に死去したものと考えられる。そのため持参していた往来手形が圓満寺に渡されたのであろう。
旦那寺浄土宗・西方寺は現在姫路市網干区浜田に現存している。