原文
寺送一札
(挿入紙・改名伊兵衛)
一越前国敦賀郡茶町丸屋彦七与申者
代々浄土真宗本願寺末當寺旦那二紛無
御座候然ル処此度為渡世之京都江罷登り候間
宜敷御願申入候且又此者何之子細も無之尤
御制禁之邪宗門之者二而者無御座候若万一
病死等仕候ハゝ其処之御作法之通り宜御取
隠可給御願申入候右為念之寺状如件
天保七丙申年四月
越前国敦賀郡泉村
永覚寺
町内
御役人衆中
書き下し文
寺送一札
(挿入紙・改名伊兵衛)
一越前国敦賀郡茶町丸屋彦七と申す者
代々浄土真宗本願寺末当寺旦那に紛れ無く
御座候 然る処此度渡世の為京都へ罷り登り候間
宜敷御願申入候 且又此者何の子細も之無く尤も
御制禁の邪宗門の者にても無く御座候 若し万一
病死等仕り候はば其処の御作法の通り宜しく御取り
隠し給うべく御願申し入れ候 右念の為寺状件の如し
天保七丙申年四月
越前国敦賀郡泉村
永覚寺
町内
御役人衆中
解説
この送り状には包紙があり、「寺送り 一通 弘化四未三月岡嵜町藤次郎名跡伊兵衛送り」と記されています。
1836(天保7)年にこの送り状を持参して京都へ仕事を求めて敦賀からでてきた丸屋彦七が大阪までたどり着き
岡嵜町藤次郎の跡継ぎ(養子)となり1847(弘化4)年に伊兵衛と改名して後継者となったかも知れません。そのときに圓満寺へ人別加入したのかもしれません。
あくまでも推測の域をでませんが、江戸末期にはこのように送り状を持参して地方から大阪や京都へ仕事を求めて上京するケ-スが多々見られたのではないでしょうか。
寺送り状が往来手形と同様に扱われていたのかもしれません。尚、永覚寺は敦賀市内に現存する浄土真宗本願寺派(お西)寺院です。