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古文書
2026/03/15
往来手形㉔

原文

        覚
一藝州安藝郡倉橋嶋室尾浦百姓
                  清吉
                  一人
 右之者代々浄土真宗数年當寺
 旦那紛無御座候此度為入湯
 国元を罷立申候然ル上ハ於何處病
 死仕候共其御處之御作法通
 御取置可被下候尚日二行暮候
 節者萬事宜敷く御頼申候  右
 為後日往来一札如件
           藝州安藝郡
  安政七      室尾浦
   申閏三月日    妙行寺

   国々處々
      御役人衆中

書き下し文

        覚
一芸州安芸郡倉橋嶋室尾浦百姓
                  清吉
                  一人
 右の者代々浄土真宗数年当寺
 旦那紛れ無く御座候 此度入湯の為
 国元を罷り立ち申候 然る上は何処に於いて病
 死仕り候共 其御処の御作法通り
 御取り置き下さるべく候 尚日に行暮候
 節は万事宜敷く御頼み申し候  右
 後日の為往来一札件の如し
           芸州安芸郡
  安政七      室尾浦
   申閏三月日    妙行寺

   国々処々
      御役人衆中

解説

  安政七(一八六〇)年閏三月に発行された往来手形です。芸州(広島県)安芸郡の倉橋島室尾浦の百姓清吉が入湯(温泉巡り?、湯治?)の為出立するときに旦那寺の妙行寺から発出された手形です。
 往来手形は諸国寺社を巡拝するために発出されることがほとんどであり、入湯(温泉巡り?、湯治?)目的で発出される事は希有であり、そのような往来手形が認可されていることに驚いています。幕末期には世の中が混乱し幕府の権威が低下しこうした手形も認可されるようになったのでしょうか。
  天下の台所・大阪へ移住する目的で様々な手形(送り状)が発出されています。出稼ぎや移宅目的で地方寺院から送り状が多数発出されています。いつの時代でも大都市へ地方から人々が流入するのは変わらないということです。
  この手形が圓満寺に現存しているのは、清吉が大阪へ来て圓満寺門徒になるためこの手形を持参したのか、あるいは、清吉が大阪で死去し請け人(保証人)が圓満寺へ葬儀を依頼したかと思われます。倉橋島妙行寺から発出された送り状は圓満寺に多数現存しています。倉橋島とこの地域との深い繫がりが感じられます。